1985年(昭和60年)8月12日に日本航空123便のボーイング747型機が群馬県多野郡上野村の御巣鷹山に墜落した「日本航空123便墜落事故」。航空史上最悪の事故ともいわれているこの「日本航空123便墜落事故」には数々の疑惑や陰謀論がささやかれています。今回の記事ではそんな「日本航空123便墜落事故」の自衛隊関与疑惑についてご紹介します。
遺体だけが燃えている不自然さ
日本航空123便のボーイング747型が墜落した群馬県多野郡上野村の御巣鷹山の墜落現場には乗客・乗務員あわせて524人のうち520人の遺体が発見されました。生存者はわずか4名という凄惨な事故現場ですが週刊誌のカメラによって収められた遺体写真の中には不自然な点があります。
カメラマンによってとられた写真では遺体は真っ黒になるまで燃えてしまっているのですが、遺体の周囲にある木々は無事なままのものが多く、遺体の周辺には乗客が墜落中に紙にかいた最後のメッセージや紙幣などが発見されています。遺体と対面した遺族の方が「あんなの人間の遺体やない」、「人間の遺体というよりは炭のようやった」とまで発言したほどに焼けてしまった遺体。そこまで凄惨な現場に紙が奇跡的に燃やされなかったということはあり得るのでしょうか。何者かが遺体だけを焼いたのであればこのように遺体だけが真っ黒こげになるまで焼かれてしまって、周りの木々や紙は焼かれずに残るとも考えられます。
遺体と対面した遺族の方が「あんなの人間の遺体やない」、「人間の遺体というよりは炭のようやった」とまで発言したほどに焼けてしまった遺体。そこまで凄惨な現場に紙が奇跡的に燃やされなかったということはあり得るのでしょうか。
生存者の証言と事故報告書の違い
救出された日本航空客室乗務員の落合氏は墜落時には周囲にも生存者がいて助けを求める声や息遣いが聞こえたと証言しています。一方、公式の事故報告書によると救助された4名以外の者は即死もしくはそれに近い状況であったとのことです。生存者の証言と決定的に異なります。
救助開始まで時間がかかりすぎた
日本航空123便が墜落したのは18時56分であり、上空から火災の様子がわかるほどであり救助隊はすぐに墜落現場付近にたどり着くことができたといわれていますが、あまりにも火災が強く上空からの救助をあきらめて地上からの救助に切り替えましたが救助が開始されたのは翌日の午前8時過ぎになってからとのことで救助開始前までに約13時間もかかっています。夜間の為救助開始が遅れてしまったことは非常に残念なことではありますが、何者かが上記のような遺体を焼くといったことをする時間が十分にあったと考えられることも、この疑惑がささやかれる要因でもあります。
証拠隠滅行為疑惑
事故原因とされる圧力隔壁ですがこれを墜落事故現場で自衛隊が裁断、破壊したということも証拠隠滅疑惑としてささやかれています。圧力隔壁の損傷が事故原因であるならば、事故原因究明及び再発防止のためにも調査しなければいけないのに裁断・破壊をしたということは証拠隠滅を疑われても仕方がないのかもしれません。
またもう一つの事故原因である垂直尾翼の破壊に関しては垂直尾翼等の破片と思われるものが海底で発見されていますが引き上げが行われていません。事故原因を究明するのであれば引き上げて調査するべきですがいまだに引き上げられることなく海底に眠っています。
ボイスレコーダーに残された機長の「何か爆発したぞ」
墜落事故が発生した日本航空123便の機長高濱雅巳氏は日本航空に入社する前は海上自衛隊に所属していたという経歴をもっており、総飛行時間は1万2千時間を超えるベテラン機長でありました。墜落事故現場から発見されたボイスレコーダーには機長の高濱氏の「何か爆発したぞ」との声が記録されていました。
公式発表による事故原因である後部圧力隔壁の損傷と尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の破壊だとすれば「何か爆発したぞ」という発言には違和感を感じます。「トラブル」もしくは「異常」などと発言するのが一般的かと思われます。
事故発生時刻に行われていた誘導ミサイルの実証実験
事故発生時には相模湾内で海上自衛隊の護衛艦まつゆきは無人標的機ファイア・ビーと誘導ミサイルチャカ2の実証実験を行っていたそうです。日本航空123便は予定時刻より遅れて離陸したため不幸にもミサイルが日本航空123便に命中してしまったという疑惑が生まれてきます。
もしミサイルが日本航空123便に命中したのであれば高濱機長が発言した「何か爆発したぞ」という発言にも説得力があります。
墜落現場にいた自衛隊員の謎
日本航空123便の事故現場に最も早くたどり着いたといわれているのは地元在住の若者といわれています。その若者はオフロードバイクで墜落現場に向かったそうです。夏とはいえ陽が落ちていたものの上空には自衛隊と思われる飛行機が旋回していたため暗い山道でありながら墜落現場にたどり着けたそうです。
若者の証言によると墜落現場にはすでに自衛隊員が大勢集まっており何かを回収しているようだったと言います。
もう一つ自衛隊員にまつわる奇妙な話としてはこの日本航空123便墜落事故が発生した1985年を境に自衛隊員の自殺者数が大幅に増加したといいます。いったい墜落事故現場にいた自衛隊員は救助活動よりも優先してなにを回収していたのでしょうか。すこし疑った言い方をするとそこにいたのは本当に自衛隊員だったのでしょうか。
オカルト研究室室長の考察
日本航空123便墜落事故に自衛隊が関与していたかという決定的な資料はありませんが現場での証拠隠滅や海底に眠る証拠品の引き上げが行われていないなど真相を究明されたら不都合があるように思えてしまいます。
もし自衛隊が日本航空123便墜落事故に関与していたならばという仮定でまとめると、相模湾で海上自衛隊の護衛艦まつゆきが行っていたミサイルの実証実験を行っていたところ、不幸にも日本航空123便が離陸時間を送れて出発したため相模湾に差し掛かったところでミサイルが命中してしまった。日本航空123便は群馬県多野郡上野村の御巣鷹山に不時着を試みた。不時着後にはまだ生存者がいたが事故の発覚を恐れて隠ぺい工作をしようとした自衛隊によって生存者は口封じをされ、証拠品の回収・破壊による隠滅が行われた。そのため救助活動が墜落事故発生から約13時間も経過した翌日朝まで開始できなかった。
日本航空123便墜落事故には自衛隊の関与疑惑のほかにも様々な疑惑や陰謀論などがありますが犠牲となった乗客・乗務員の方々のご冥福をお祈りします。そして残されたご遺族の方々のためにも墜落事故の真相が究明されることを願っています。
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