
四谷怪談お岩さんの真実―四谷怪談のモデルとなった実在の女性の素顔
毒で顔がただれ、恨みを抱いて夫の前に現れる幽霊――「四谷怪談」のお岩さんは、日本三大怪談の一つに数えられるほど広く知られた存在だ。しかし、この物語のモデルとなった実在の女性は、恨みとはまったく無縁の、夫を支え続けた貞淑な妻だったという。今回はこの四谷怪談と、今も演劇・映画業界で語り継がれる不思議な風習について紹介したい。
歌舞伎『東海道四谷怪談』の恐怖
1825年、江戸中村座で初演された鶴屋南北の歌舞伎狂言『東海道四谷怪談』は、婿養子の民谷伊右衛門が、妻・お岩を裏切って毒を盛り、その顔を無残にただれさせるという物語だ。伊右衛門は別の女性との結婚を望み、お岩を邪魔に感じて命を奪おうとする。変わり果てた姿となったお岩は絶命後も怨霊となって伊右衛門の前に現れ続け、最後には無数の鼠と怨霊に苦しめられながら破滅していく。両面に死体が釘付けにされた「戸板返し」の場面など、視覚的な恐怖演出でも知られ、江戸の人々を熱狂させた作品だった。
実在したお岩さんは、まったく違う人物だった
興味深いことに、お岩には実在のモデルがいたとされている。田宮家の娘であったお岩は、寛永13年(1636年)に亡くなったと伝えられており、これは鶴屋南北の歌舞伎初演のおよそ200年も前の人物だ。しかし現在まで続く田宮家の子孫が語り継いできた話によれば、実際のお岩は毒を盛られて殺されたのではなく、経済的に苦しかった田宮家の家計を、婿養子の夫とともに懸命に立て直した貞淑な女性だったという。夫婦仲も睦まじく、家に代々伝わる稲荷を熱心に信仰していたと伝えられている。物語の中で描かれる「恨みを抱いて祟る妻」という姿とは、まるで正反対の人物像だ。
物語はどこから生まれたのか
では、なぜこれほど暗い物語が生まれたのだろうか。1827年、江戸の町年寄が幕府に提出した調査報告『文政町方書上』には、貞享年間(1684年から1688年)に四谷で実際に起きたとされる出来事が記録されている。それによれば、婿養子だった伊右衛門という人物が上役の娘と重婚し、これを知った妻が発狂して失踪、その後関係者18人が次々と不幸な最期を遂げたという内容だ。ただしこの報告書が作成されたのは、南北の歌舞伎が大ヒットしたわずか2年後であり、研究者の間では「南北自身が自作の宣伝のために、こうした話を広めさせたのではないか」という見方もある。実際のところ、田宮家ゆかりの女性をめぐる何らかの出来事が、時代を経て怪談として脚色されていった可能性が高いようだ。
二つに分かれた於岩稲荷神社
お岩が代々信仰していたと伝わる稲荷社は、後に「於岩稲荷」として多くの人々の信仰を集めるようになり、1872年には田宮稲荷と改称された。現在、東京都新宿区左門町には、道を挟んで「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷陽運寺」という二つのゆかりの場所が存在している。これは1879年の火災で元の神社が一時新川へ移転した際、地元に新たな稲荷を建立しようとする動きがあったためとされる。花街からの信仰も厚く、「男女の縁切り」や「縁結び」のご利益で知られるようになり、参拝者や土産物によって地元が潤ったという、少し生々しい経済的背景も伝えられている。
今も続く「参拝しないと事故が起きる」という言い伝え
四谷怪談をめぐって特に興味深いのは、演劇・映画関係者の間で今なお語り継がれている風習だ。舞台や映像作品で『四谷怪談』を扱う際には、事前に於岩稲荷へ参拝しなければ事故が起こる、という言い伝えが根強く残っており、役者やスタッフが撮影や上演の前に必ず参拝する光景は、現代でも見られるという。もっとも、これについては「四谷怪談だから特別なアクシデントが起きる」というよりも、大がかりな撮影や公演にはもともと一定の確率でトラブルがつきものであり、それがこの物語の場合に限って強く印象づけられ、表面化しやすいだけだという冷静な見方も存在する。
オカルト研究室室長の考察
貞淑な妻として生きた実在のお岩さんが、時代を経て正反対の「恨む幽霊」として広く知られるようになったという事実は、物語がいかに独り歩きしていくかを物語っている。今も残る参拝の風習は、迷信としてだけでなく、ものづくりに関わる人々が事故なく作品を完成させたいと願う、ごく自然な気持ちの表れなのかもしれない。本物のお岩さんが今の状況を見たら、自分の名がこれほど恐れられていることに、案外戸惑っているのではないだろうか。








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