千里眼事件

明治のオカルトブームが生んだ千里眼事件― 御船千鶴子と長尾郁子

明治42年、一人の女性が持つとされた不思議な力が日本中を騒がせ、当時最高峰の学府であった帝国大学の教授までもが本気で調査に乗り出す事態となった。科学とオカルトのはざまで揺れ動いたこの「千里眼事件」について、今回はその経緯と、事件が残した重い結末について紹介したい。

催眠療法の中で見出された「透視能力」

熊本県出身の御船千鶴子は、1909年(明治42年)、23歳のときに「千里眼」の能力者として注目を集めるようになった。当時、日本国内では催眠術を用いた民間療法がブームとなっており、千鶴子の義兄・清原猛雄もこうした心霊療法を行う一人だった。彼が千鶴子に催眠術をかけて治療を行う中で、彼女に封をした紙の中身を言い当てるといった不思議な能力があることが発見されたと伝えられている。

帝国大学教授による本格的な調査

この噂を聞きつけ、実験に乗り出したのが、東京帝国大学の福来友吉と、京都帝国大学の今村新吉だった。1910年2月、今村が熊本を訪れ、カードを用いた透視実験を行ったところ、高い的中率が得られたとされる。この結果を受けて調査はさらに続けられたが、その後の実験では成功と失敗が入り混じり、安定した結果は得られなかったという。

公開実験での疑惑、そして厳しい検証

同年9月、公開の場で行われた実験では、試験物がすり替えられるという不可解な出来事が起こり、能力の真偽について明確な結論を出せないまま終わってしまう。批判の中心となったのは、千鶴子が実験の際に他人の同室を固辞し、背を向けた姿勢で行っていたため、その手元を誰も確認できなかったという点だった。物理学者の山川健次郎による厳密な検証の結果、透視が成功したとされる場面は、いずれも紙を袖で隠さずに開いていたときや、封を開けた跡が見られるときに限られていたことが判明し、山川らは「手品の一種にすぎない」と結論づけた。

事件が残した重い結末

厳しい批判にさらされる中、千鶴子は熊本へと帰郷した。そして1911年1月19日、彼女は自ら命を絶ってしまう。彼女の死後もなお、実家に対する世間の批判はやむことがなかったと伝えられている。若くして脚光を浴び、そして厳しい追及の末に短い生涯を終えたこの結末は、当時の人々に大きな衝撃を与えた。

もう一人の女性、長尾郁子の悲劇

千鶴子の報道をきっかけに、同様の能力を持つとされる人物が各地で名乗りを上げたが、中でも注目を集めたのが、香川県の判事夫人であった長尾郁子だ。当時40歳だった彼女は、福来が考案した、写真乾板に念じた像を写し出すという「念写」の実験に挑戦し、当初は成功例が報告されていた。しかし、こちらも山川による厳密な検証によって不審な点が多く指摘され、さらに実験に協力していた催眠術師との不倫疑惑までもがマスコミの焦点となってしまう。心労が重なったのか、長尾は1911年2月26日、病によってこの世を去った。

事件のその後

一連の騒動の末、科学者たちは「千里眼は科学にあらず」として、この一件に幕を引いた。調査の中心にいた福来友吉は東京帝国大学を辞職し、その後はオカルティズムへの傾倒を一層深めていったと伝えられている。

オカルト研究室室長の考察

千里眼事件は、科学と超常現象という二つの世界が真正面からぶつかり合った、日本の近代史における特異な出来事だったといえる。しかしその裏には、能力の真偽をめぐる論争に翻弄され、若くして命を落とした一人の女性の存在があったことを忘れてはならない。真実がどうであれ、この事件が今も語り継がれているのは、科学的な好奇心と、一人の人間の悲劇とが、切り離しがたく結びついているからなのかもしれない。

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