
平将門公の首塚不敬事件|地震・豪雨・台風は本当に祟りなのか
東京・大手町のオフィス街に、周囲の超高層ビル群から取り残されたようにひっそりと佇む一角がある。平安時代の武将・平将門の首を祀るとされる「将門塚」だ。2026年8月、この場所で迷惑系配信者による不敬な生配信が炎上し、その直後に関東で地震・豪雨・台風が相次いだことから、SNS上で「祟り」だと大きな話題になった。史実と伝説、そして今回の一件を整理してみたい。
「日本三大怨霊」平将門と首塚の歴史
平将門は平安時代中期、関東で勢力を広げた武将だ。一族の争いから朝廷への反乱に発展し、940年、平貞盛・藤原秀郷の連合軍に討たれた。晒された首を供養するため、鎌倉時代の1307年に僧・他阿によって板碑が建立されたことが、首塚の史料上たどれる最も古い記録とされる。将門は崇徳天皇・菅原道真と並ぶ「日本三大怨霊」の一人に数えられている。
取り壊しを阻んできた「祟り」の逸話
首塚をめぐる逸話で特によく知られているのが、1923年の関東大震災後の一件だ。大蔵省が仮庁舎を建てるため塚周辺を整地したところ、工事関係者や省内職員に怪我が相次ぎ、当時の大蔵大臣も就任からわずか数か月で病死したと伝えられる。1927年に鎮魂祭が行われ、仮庁舎は取り壊された。この逸話は国税庁(旧大蔵省)自身が公式サイトのコラムで「祟りが事実かどうかは確かめようがない」としながら紹介しており、単なる都市伝説として片付けられない重みを持つ。さらに1940年には大蔵省本庁舎が落雷によって炎上したという記録も残っており、こうした出来事の積み重ねが「祟り」の印象を強めていったと考えられる。戦後のGHQによる撤去計画が頓挫したという話も広く語られているが、これを直接裏付ける公文書までは確認されておらず、言い伝えの域にとどまる部分もある。2020年の大規模再開発でも首塚はあえて敷地内に保存され、今も地元有志によって清掃・管理が続けられている。
討たれた首が飛んだという伝説
さらに古い伝承として、京都で晒された将門の首が三日後に白い光を放って東国へ向けて飛び、力尽きて落ちた場所が現在の首塚だとする話がある。これは史実として確認できるものではなく、後世に語り継がれてきた説話の域を出ないが、怨霊としての将門公のイメージを決定づけた物語として、今も各所で語り継がれている。
2026年8月、迷惑系配信者による不敬行為
2026年8月19日夜、配信プラットフォームで活動していたある配信者が、首塚の石碑によじ登り、卑猥な行為を交えながら奇声を発する様子を生配信したと複数のメディアが報じた。首塚を管理する保存会は警察に相談し、礼拝所不敬罪などの容疑で捜査対象になったとされる。所属していた配信者集団は数日後に脱退処分を発表し、配信プラットフォーム側も事実上の追放措置を取ったという。
相次いだ地震・豪雨・台風と「祟り」言説
この炎上から間もなく、関東では記録的な短時間大雨、最大震度5弱の地震、そして9月には台風による大雨と土砂災害が相次いだ。台風では実際に亡くなった方や行方不明になった方もおり、これは配信者の行為とは無関係に、多くの人々の暮らしに深刻な被害を及ぼした実際の災害である。それでもSNS上では「将門公の祟りでは」「三大怨霊をなめるな」といった投稿が急増し、一連の出来事が結びつけて語られる現象が起きた。
科学的には結びつかない「偶然の一致」
地震はプレート境界に蓄積したひずみが解放されて起こる地学的な現象であり、日本列島は元々地震が多い地帯にある。豪雨や台風も、秋にかけて日本に接近しやすい季節性のある気象現象だ。個人の不敬な行為とこれらの自然現象を結びつける物理的な因果関係は存在しない。心理学ではこうした「印象的な出来事だけを選び出して結びつけてしまう」現象は「因果錯覚」と呼ばれており、期間や範囲を広げれば偶然の一致はいくらでも見つけられてしまうことが知られている。
オカルト研究室室長の考察
科学的には単なる偶然の一致だとしても、これほど短期間に「不敬」と「災い」が重なったことで、多くの人が将門公の伝説をあらためて思い出すきっかけになったのは事実だろう。首塚が100年近くにわたって取り壊されずに大手町のど真ん中に残り続けてきたこと自体、この土地に暮らす人々が将門公に払ってきた敬意の証でもある。祟りを面白がる前に、まずはその歴史と、今も塚を守り続ける人々の存在に思いを馳せたい。
都市伝説や妖怪、心霊現象、未確認生物、歴史に残る不可思議な出来事を探究するオカルト愛好家。噂をそのまま紹介するだけでなく、伝承が生まれた背景や史実、科学的な説などを調べ、さまざまな角度から考察しています。信じる・信じないだけでは終わらない、オカルトの奥深さと面白さをお届けします。









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