即身仏と入定の真実

即身仏と入定の真実|湯殿山の一世行人と、寺伝・調査・明治の法制度

山形県の庄内地方には、江戸時代から明治初期にかけて修行を重ね、肉身のまま仏になったとされる行者たちが、今も寺の本堂に安置されている。即身仏である。「地中に入って鈴を鳴らし、鈴の音が止まると亡くなったと見なされた」といった話はよく知られるが、どこまでが寺に伝わる話で、どこまでが調査で確かめられたことなのか。本稿では、湯殿山系の行者(一世行人)を中心に、確認できる事実と伝承を分けて整理してみたい。なお、即身仏は今も信仰の対象である。見世物のような扱いは避け、敬意をもって書き進める。

即身仏とは何か

辞書では、即身仏は「肉身のまま成仏した人」と説明される。もとは真言密教の「即身成仏」(修行によって、生きたまま大日如来と一体になること)の思想に基づく言葉で、本来はミイラ化とは直接関係がない。それが江戸時代の庄内では、人々を救うために自ら入定した行者が、遺体の姿をとどめたまま祀られる存在を指すようになった。科学的には、即身仏は亡くなった方の遺体がミイラ化したものだが、信仰の上では今も生きて祈り続けているとされる。そのため、寺院によっては「ミイラ」という呼び方に抵抗を示す。大日坊の貫主が「ミイラといわれるのは侮辱です」と語ったという記録もある。

空海の「入定」信仰とのつながり

「入定」といえば、高野山奥之院で空海が今も禅定を続けているという信仰が有名だ。現在も毎日、僧が食事を運ぶ儀式が続くとされる。一方、歴史研究では、この入定留身の説話は空海の没後すぐには見られず、10世紀中ごろから11世紀初めにかけて形成されたという見方が示されている。湯殿山系の行者にとって空海への信仰は大きな支えだったとされ、一部の寺では行者が空海にちなんだ年齢での入定を願ったと伝わる。ただし、空海信仰が即身仏の直接の起源だと断じた研究は、確認できていない。

なぜ庄内に多いのか

現存する即身仏は、全国で17〜18体とされることが多いが、24体とする案内もあり、数え方によって数字が異なる。このうち山形県に集中し、庄内には鶴岡市や酒田市の注連寺、大日坊、本明寺、南岳寺、海向寺などに安置されている。背景として、nippon.comの解説は次のような経緯を挙げる。1641年に羽黒山が天台宗に統一されたあと、出羽三山では天台宗と真言宗の対立が深まった。真言宗の側は、湯殿山で修行する「一世行人」と呼ばれる一代限りの修行者を、布教の前線に立てて対抗したという。一世行人は、外部から来た半僧半俗の行者であったとされる。この説明の出所は一つの解説に限られるため、断定は避けておく。修行では、五穀や十穀を断って木の実や山草だけで暮らす木食行や、千日にわたる山籠りが行われたと伝わる。

「土中入定」の伝承と、残っていない記録

寺や観光案内では、入定の様子はおおむね次のように語られる。地下に石室をつくり、座棺を入れて、竹筒で空気を通す。やがて合図の鈴の音が止まると、亡くなったと見なされる。その後、3年3か月を経て掘り出され、即身仏になったとされる。ただし、期間は「1000日後」とする説明もあり、揺れがある。nippon.comによれば、こうした土中入定を明記した古文書は見つかっていない。実際に入定塚が掘られた例でも、出てきたのは白骨だったという。つまり、よく知られた手順の多くは、寺伝として語り継がれてきたものであり、記録で裏づけられた事実とは言い切れない。

学術調査で分かったこと

1967年から1993年にかけて活動した「日本ミイラ研究グループ」は、新潟大学の研究者らを含む医学・人類学などの専門家で構成され、各地の即身仏を調査し、1993年に『日本ミイラの研究』を刊行した。nippon.comは、1960年代の新潟大学医学部の調査で、ほとんどの即身仏に、死後の人工的な乾燥などの処理が行われた痕跡が認められたと伝える。日本の気候では、自然のままではミイラにならないという。ただし、誰が、どのような処理をしたのかという具体的な中身は、確認できていない。調査報告の原本にも当たれていないので、ここでは「そう報じられている」にとどめる。

新潟県村上市の仏海上人の例は、事情をよく伝える。1903年に亡くなった仏海上人は、入定のために穴を掘っていたところ、警察官に止められ、自殺にあたるとされたと伝えられる。寺内で亡くなったあとに遺体が穴へ移されたものの、明治初期の墳墓発掘を禁じる法令のため、遺言の年数を待っても掘り出せなかった。その入定墓は1961年に発掘調査され、ほぼ完全なミイラが木棺とともに見つかったという。

明治の法制度が終わらせた行

明治に入ると、即身仏を目指す行は事実上できなくなった。山形県の観光資料は、1880年(明治13年)の旧刑法で自殺ほう助や墳墓発掘が禁じられ、入定は自殺とみなされ、石室を開くことも違法になったと説明する。南岳寺の鉄竜海上人の没年は明治14年(1881年)とする資料が多いが、かつて明治元年とされ、実際の年が判明したのは昭和半ばだったという。法に触れないように年が前倒しにされた可能性を指摘する見方もあるが、確かなことは分からない。

今も続く信仰

現在、庄内の即身仏は寺院で祀られ、参拝者を迎えている。大日坊では、真如海上人の即身仏が本堂に安置され、撮影は禁止とされる。衣替えは6年に一度行われると伝わる。補助金が得にくく、維持が寺院の負担になっているという指摘もある。拝観の可否や時間は寺院ごとに異なるため、訪ねる前に確認してほしい。

オカルト研究室室長の考察

即身仏は、わかりやすい怪談にはなりにくい。しかし、飢饉や疫病に苦しむ人々の苦しみを引き受けようとする祈りと、明治の法制度、そして近代医学の目が重なる、日本の宗教史そのものだと思う。現在目にできるのは成就したとされる方々だけで、行に挑んで叶わなかった人々の数は、確かな記録がなく分からない。その沈黙も、この歴史の一部だろう。肝試しのように訪ねるのではなく、今も祈りの場である寺に静かに手を合わせる気持ちで向き合いたい。なお、この行は現代では行えないものであり、決して真似をしてはならない。

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