
二・二六事件の怪異 ― 昭和史の悲劇が眠る渋谷の一角
渋谷駅から少し離れたビル街の一角、NHK放送センターにほど近い場所に、ひっそりと一体の観音像が立っている。周囲を行き交う若者の多くは、その由来を知らないまま通り過ぎていくが、この場所はかつて昭和史に残る大事件の処刑場だった。今回は「二・二六事件」にまつわる歴史と、今なお語り継がれる怪異について紹介したい。
1936年2月26日、雪の朝に起きたクーデター
1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて、陸軍の皇道派に属する青年将校たちが、約1,483名の下士官兵を率いて蜂起した事件が「二・二六事件」だ。将校たちは「昭和維新」を掲げ、政治の腐敗や農村の困窮を「君側の奸」の存在によるものと捉え、要人の排除によって世直しを図ろうとした。決起した部隊は永田町や霞ヶ関一帯を占拠し、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監らが襲撃を受けて命を落としたほか、警備にあたった警察官3名も殉職した。当時の首相・岡田啓介は難を逃れたものの、この事件によって岡田内閣は総辞職に追い込まれている。
代々木の陸軍刑務所で下された銃殺刑
反乱は間もなく鎮圧され、決起の中心人物であった将校たちは同年7月、一審のみの非公開軍法会議によって死刑判決を受けた。野中四郎大尉は判決を待たずに自決したとされ、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀ら首謀者と、思想的な影響を与えたとされる民間人・北一輝は、7月12日、そして翌1937年8月19日、代々木にあった陸軍刑務所内の刑場で銃殺刑に処された。
「被害も加害も問わず」建てられた慰霊像
処刑から30回忌にあたる1965年2月、反乱将校の遺族らで構成される「仏心会」によって、かつての刑場の跡地に一体の観音像が建立された。この像は、事件で命を落とした側と、命を奪った側の双方を分け隔てることなく、すべての犠牲者の冥福を祈るという趣旨で建てられ、今も遺族らの手によって守られている。かつて刑務所があった場所は、今ではオフィスビルが立ち並ぶ渋谷の一角となり、当時の面影を知る手がかりはほとんど残っていない。
令和の若者に「告白スポット」として親しまれる皮肉
2000年代以降、この慰霊像には意外な形での噂が広まった。「この像の前で告白すると恋が成就する」というもので、書籍などでも女子高生の間で人気の「パワースポット」として紹介されるようになったという。その理由については、「若くして命を落とした青年将校たちの霊が、同じ若者を応援してくれる」という霊的な解釈のほか、「渋谷駅から離れた場所までわざわざ足を運んでもらえること自体が、脈があることの証明になる」という、いささか現実的な見方も語られている。風紀の乱れを憂いて決起したはずの将校たちが、令和の時代に恋の後押し役として親しまれているとしたら、なんとも皮肉な話である。
首相公邸に響く、軍靴の足音
二・二六事件にまつわる怪異は、渋谷の慰霊像だけにとどまらない。もう一つの舞台として知られているのが、東京・永田町の首相公邸だ。この事件では反乱部隊の一部が当時の首相官邸に突入しており、さらに1932年の五・一五事件でも犬養毅首相がこの場所で凶弾に倒れている。こうした経緯から、公邸には古くから「軍服姿の幽霊が出る」という噂がささやかれてきた。
歴代の首相経験者やその家族の間でも、公邸内での不可解な体験が語られている。ある首相は深夜、複数のブーツが行進するような足音を聞き、ドアを開けても誰もいなかったと証言したとされる。また別の首相は、夜になると壁がゆらゆらと揺れる現象に見舞われたと伝えられている。首相経験者の妻の中にも、公邸内で人影を見たと周囲に話した人物や、風呂場の排水溝から見慣れない黒く長い髪の毛が大量に出てきたという体験を著書に記した人物がいるという。なお、現在の公邸は2003年から2005年にかけて建て替えられた新しい建物であり、事件当時のものとは異なる点は付け加えておきたい。
オカルト研究室室長の考察
非業の死を遂げた者の霊が祟りをなすという考え方は、菅原道真や崇徳天皇など、古くから日本各地に伝わる御霊信仰に通じるものがある。二・二六事件で命を落とした将校たちの霊が、時代を超えて公邸に響き続けているのだとしたら、それは単なる怪異譚というよりも、権力の中枢で起きた悲劇を、社会そのものが今なお忘れきれずにいることの表れなのかもしれない。ビル街にたたずむ観音像の前を通りかかった際には、その足元に刻まれた歴史にも、少しだけ目を向けてみてほしい。





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