白峯神宮

崇徳天皇 ― 舌を噛み血で誓った「大魔縁」【日本三大怨霊】

菅原道真平将門に続き、今回は「日本三大怨霊」の最後の一人、崇徳天皇を取り上げる。天皇という最高の地位に生まれながら、その生涯は不遇に彩られ、最期は「日本国の大魔縁とならん」という壮絶な誓いを立てて崩御したと伝えられる人物である。これで三大怨霊シリーズは完結となる。

出生の秘密と「叔父子」と呼ばれた不遇

崇徳天皇の生涯は、その出生の噂からすでに影を帯びていた。平安末期の説話集『古事談』には、崇徳天皇が実は祖父にあたる白河法皇と、母である中宮・璋子との間に生まれた子であるという記述が残されている。真偽は定かではないが、この噂を信じていたとされる父・鳥羽天皇は、崇徳天皇を「叔父子(おじご)」と呼び、忌み嫌ったと伝えられている。

譲位の恨みと保元の乱

1141年、鳥羽法皇は寵愛する側室の子・躰仁親王への譲位を崇徳天皇に強要する。本来「皇太子」として即位を継ぐはずだった立場は、宣命の上では「皇太弟」として扱われ、崇徳院にとって大きな遺恨として残ることになった。

1155年、跡を継いだ近衛天皇がわずか17歳で崩御すると、後継をめぐる争いが表面化する。崇徳院の子・重仁親王が有力候補と目されていたが、結局は雅仁親王(後白河天皇)が即位。1156年、鳥羽法皇が崩御した直後、両者の対立はついに武力衝突へと発展した。これが「保元の乱」である。敗れた崇徳院は仁和寺へ出頭し、剃髪して降伏した。

讃岐配流、そして舌を噛み切った誓い

1156年7月23日、崇徳院は讃岐国(現在の香川県)へと配流される。天皇・上皇の配流は、実に400年ぶりの出来事だった。配流先で崇徳院は、五部大乗経の写本作りに没頭する。完成したこの経典を京の寺院に納めたいと朝廷に願い出たが、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、これを拒絶した。

『保元物語』によれば、この仕打ちに激怒した崇徳院は自ら舌を噛み切り、ほとばしる血で経典に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と書き記したという。以後、崇徳院は爪や髪を伸ばし続け、その姿は夜叉のように、やがて天狗のようになっていったと伝えられている。

崩御後、疫病と大火が「祟り」と結び付けられる

1164年8月26日、崇徳院は讃岐の地で46年の生涯を閉じた。しかし当初、その死は京の都で大きく取り沙汰されることはなかった。事態が変わるのは13年後の1177年、延暦寺の強訴、都を焼き尽くす安元の大火、平家打倒を企てた鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こったときである。「これらの悪事は、讃岐院(崇徳院)の仕業ではないか」という疑いが、公家の日記にも記されるようになった。

後白河院は崇徳院の怨霊を鎮めるため、保元の乱に関する宣命を破棄し、追号を「崇徳院」に改めた。1184年には京都・春日河原に崇徳院を祀る廟も設けられている。

明治維新の直前、京都に迎え戻された御霊

崇徳院の霊を慰める動きは、実に700年後の幕末にまで続く。孝明天皇は、異郷で祀られたままの崇徳院の霊を京都へ迎え戻すよう命じ、その遺志を継いだ明治天皇は即位直後の1868年8月、白峯宮の創建を宣言した。命日である8月26日には讃岐の白峯陵へ勅使が送られ、9月6日、崇徳院の御霊はついに京都へと帰還する。そのわずか2日後の9月8日、元号は「明治」へと改められた。新しい時代の幕開けの直前、新政府はあえてこの怨霊を丁重に迎え入れる儀式を行ったのである。

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オカルト研究室室長の考察

菅原道真、平将門、そして崇徳天皇。日本三大怨霊と呼ばれる三人に共通するのは、いずれも政治的な不遇の末に非業の死を遂げた人物だという点だ。そしてその恨みを鎮めるための儀式や配慮が、時に数百年の時を超えて、真剣に執り行われ続けてきたという事実である。

科学の時代となった現代においてもなお、こうした「祟り」への畏れが完全に消え去ってはいないことこそ、日本人の精神史における一つの興味深い謎なのかもしれない。

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