平将門公の首塚

平将門の首塚 ― 東京・大手町に今も残る千年の呪い【日本三大怨霊】

東京都千代田区大手町。日本を代表する巨大オフィス街の一角に、周囲の超高層ビル群とは明らかに異質な一画がある。「平将門の首塚」だ。以前このコーナーでは、日本三大怨霊の一人・菅原道真公を取り上げた。今回は、その三大怨霊に数えられるもう一人の人物、平将門にまつわる伝説を追ってみたい。

「新皇」を名乗った反逆者、平将門

平将門は平安時代中期、関東地方で勢力を広げた武将である。935年から940年にかけて起きた争乱の末、将門は関東一円を実力で支配下に置き、みずから「新皇」と名乗るに至った。これは、京の朝廷にとって明確な反逆であり、日本の歴史上でも類を見ない事件だった。最終的に将門は、藤原秀郷と平貞盛の軍勢によって討たれ、その首は京へと送られることになる。

京都から東国へ「飛んだ」首

京の四条河原に晒された将門の首には、恐るべき伝説が残されている。「今一度戦わん」と叫んだその首が、3日をかけて自らの力で東国へと飛び去った、というのだ。そして力尽きて落ちた場所こそが、武蔵国豊嶋郡芝崎村——現在の大手町だったと伝えられている。首が落ちたその場所に塚が築かれ、鎌倉時代の1307年には、僧・他阿真教によって「蓮阿弥陀仏」という法名が贈られ、供養の碑が建てられた。江戸時代には姫路藩の上屋敷の敷地内に取り込まれていた時期もある。

関東大震災後、大蔵省仮庁舎建設と相次ぐ死

1923年の関東大震災で周辺一帯が被災した後、大蔵省はこの塚を撤去して仮庁舎を建設しようとした。ところがその直後から、不審な死が相次ぐ。大蔵大臣・早速整爾は発病からわずか3ヶ月で死去し、その後も幹部を含む14名が2年以内に命を落としたと伝えられている。事態を重く見た大蔵省は昭和2年(1927年)、塚を復元し、盛大な供養祭を執り行った。

GHQのブルドーザーが横転した日

戦後、この一帯を接収したGHQは、区画整理のため塚を撤去し、駐車場を建設しようと計画する。ところが整地作業中にブルドーザーが横転する事故が起こり、日本人の運転手が死亡した。この事故をきっかけに撤去計画は中止され、結果として塚はその後も現在の場所に残り続けることになった。

神田明神からも一度外された将門

将門をめぐる複雑な扱いは、首塚だけの話ではない。江戸総鎮守として知られる神田明神でも、将門は長らく祭神として祀られてきたが、明治政府は「朝敵であった将門を祀るのは、天皇の参詣にふさわしくない」との理由から、将門を本殿の祭神から外してしまう。将門が本殿の祭神に復帰を果たすのは、実に昭和59年(1984年)のことだった。

令和にも続く”配慮” ― 2020年の改修工事

首塚は現在も定期的に改修され、大切に維持管理されている。2020年11月から翌年4月末にかけて行われたのは、1961年以来6回目となる大規模改修だった。工事開始からわずか3日後の11月25日、茨城県南部を震源とするマグニチュード4.3の地震が発生し、ネット上では「将門公の怒りではないか」との声も上がったという。改修後は、敷地内での供物や線香の使用が禁止されるなど、管理体制も見直されている。

オカルト研究室室長の考察

1000年以上前に朝廷へ反旗を翻した武将の首塚が、令和の今も日本経済の中枢である大手町のど真ん中に残り続けている——これ自体が、すでに十分すぎるほど不思議な話だ。度重なる撤去計画がことごとく頓挫してきた歴史を思えば、この場所に対する「畏れ」は、単なる迷信として片付けられないものを持っているように思える。

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