栃木県那須町、那須高原の一角に「殺生石(せっしょうせき)」と呼ばれる一つの巨石が佇んでいる。近づく者、鳥、獣の命を奪うと恐れられてきたこの石には、平安時代から語り継がれる九尾の狐の伝説が封じられているという。
2022年3月、この石が真っ二つに割れているのが発見され、国内外のメディアが一斉に報じる事態となった。「封印が解けたのではないか」——ネット上ではそんな声が広がった。今回はこの殺生石にまつわる伝説と、割れた石が示すものについて考察していく。
絶世の美女の正体は、大陸を渡り歩いた九尾の狐だった
古代中国を渡り歩いた妖狐
伝説によれば、この石の起源は遠く古代中国にまで遡る。
殷王朝の紂王に仕えた妃・妲己(だっき)は、実は千年を生きた九尾の狐の化身だったとされる。妲己は本物の妃を食い殺してその姿を乗っ取り、王を惑わせて国を傾けさせた。正体を暴かれて逃亡した狐は、その後も周の幽王の妃・褒姒として姿を変え、国を滅ぼしたと語り継がれている。
大陸で幾度となく王朝を惑わせてきたこの妖狐は、やがて海を渡り日本へとたどり着く。
鳥羽上皇に寵愛された女官・玉藻前
平安時代後期、18歳で宮中に上がった一人の女性がいた。名を「玉藻前(たまものまえ)」という。
類まれな美貌と博識を兼ね備えた玉藻前は、時の鳥羽上皇に瞬く間に寵愛されるようになる。しかしそれと同時に、上皇は原因不明の病に伏せるようになった。宮中の医師たちが手を尽くしても、症状は一向に良くならない。
不審に思った陰陽師・安倍泰成(あべのやすなり)が祈祷を行ったところ、玉藻前の正体が暴かれる。彼女は人の姿を借りた九尾の狐だったのだ。真言を唱えられた玉藻前はたちまち変身を解かれ、九尾の狐の姿のまま宮中から那須野へと逃げ去った。
那須で討伐された妖狐、そして石へ
那須野に逃げ込んだ九尾の狐は、その後も婦女子をさらうなど周辺を恐怖に陥れた。事態を重く見た鳥羽上皇は、三浦介義明・千葉介常胤・上総介広常を将軍とする討伐軍を編成する。
最初の攻撃は失敗に終わったというが、犬追物(いぬおうもの)で騎射の訓練を積んだ将兵たちは、やがて狐を追い詰めていく。三浦介の放った矢が狐の脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀がとどめを刺した——九尾の狐は、ついに息絶えた。
だが、話はそこで終わらない。息絶えた狐の亡骸は巨大な毒石へと姿を変え、以後、近づく人間や鳥獣の命を次々と奪うようになった。人々はこの石を「殺生石」と呼び、恐れるようになったという。
玄翁和尚が打ち砕いた石は、日本中に飛び散った
殺生石の呪いが解かれるのは、それから約200年後の南北朝時代、至徳2年(1385年)のことである。会津の高僧・玄翁和尚(げんのうおしょう)がこの地を訪れ、杖で石を打ち砕いたと伝えられている。
石は粉々に砕け散り、その破片は日本各地へと飛散した。破片が落ちたとされる土地には「高田」という地名が複数残っており、玄翁和尚の名は、のちに石を割る道具「玄翁(げんのう)」の語源になったともいわれている。
こうして九尾の狐は封じられ、那須には現在も殺生石の一部が残り続けている。
2022年3月、殺生石が真っ二つに割れる
そして時は流れ、2022年3月5日。那須町の観光名所として親しまれてきた殺生石が、真っ二つに割れているのが確認された。
那須町側は「数年前からひび割れが確認されており、自然に割れた可能性が高い」との見解を示している。地質学的に見れば、風化や凍結による岩石の破損は決して珍しい現象ではない。
しかし、九尾の狐を封じてきたとされる石が、令和の時代になって突如割れたというタイミングは、多くの人の想像力を刺激した。国内はもちろん海外メディアまでもがこのニュースを報じ、SNS上では「封印が解けた」「九尾の狐が復活するのでは」といった声が飛び交う事態となった。
さらに同年12月には、殺生石の周辺でイノシシ8頭の死骸が相次いで発見されるという出来事も起きている。環境省や那須町職員によって回収・処分されたが、この一件も「石が割れたことと無関係ではないのでは」という憶測を後押しする材料となった。
オカルト研究室室長の考察
石が経年劣化で割れることそのものは、自然現象として何ら不思議なことではない。だが、平安の昔から「命を奪う石」として畏れられてきた対象が、令和の世に音を立てて割れたという事実には、やはりただの偶然では片付けたくない何かを感じてしまう。
九尾の狐は中国大陸で幾つもの王朝を渡り歩き、日本に渡ってからも姿形を変えて人々を惑わせてきたとされる存在だ。もし本当に石という「器」の中に何かが封じられていたのだとしたら——その器が壊れた今、狐は姿を変えてすでにどこかを歩き始めているのかもしれない。
那須を訪れる際は、殺生石にそっと手を合わせてみてほしい。そこに眠るものが、静かに眠り続けてくれることを願いながら。
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