徳川埋蔵金

30年掘り続けても見つからない「徳川埋蔵金」―赤城山伝説の真相

幕末、江戸城が新政府軍に明け渡された際、幕府の金蔵はほぼ空だったという。「莫大な御用金はどこへ消えたのか」――この謎から生まれたのが、群馬県・赤城山に眠るとされる「徳川埋蔵金伝説」だ。明治から令和の今日まで断続的に発掘が繰り返されてきたこの伝説について、今回は紹介したい。

江戸城開城時、金蔵はなぜ空だったのか

1868年、江戸城無血開城にあたり金蔵を接収した新政府側は、そこにほとんど中身がないことに困惑したと伝えられている。莫大な御用金――俗説では400万両ともいわれるが、この金額の出典を明確に確認できる史料は見当たらない――が忽然と消えていた。この「空だった金蔵」という一次的な謎こそが、埋蔵金伝説の出発点となった。

近代化に尽力した実在の人物、小栗上野介忠順

この伝説と切り離せない形で語られるのが、当時の勘定奉行・小栗忠順(小栗上野介)である。小栗は遣米使節として渡米し、日米間の貨幣交換比率を巡って米政府と直接交渉した経験を持つ人物で、帰国後は財政再建や貨幣改鋳を主導した。中でも大きな功績とされるのが、フランス人技師レオンス・ヴェルニーを起用して進めた横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設だ。近代的な簿記や雇用規則まで導入したこの事業は、日本の近代化を先取りするものとして、後に大隈重信や司馬遼太郎からも高く評価されている。

罷免、そして取り調べなしの処刑

1868年、江戸城での評定で小栗は新政府軍への迎撃策を主張したが、恭順路線を選んだ徳川慶喜によって役職を解かれ、知行地である上野国権田村(現・群馬県高崎市倉渕町)へと移り住んだ。ところがわずか数日後、新政府軍によって取り調べもないまま斬首されてしまう。享年42。処刑の明確な理由を示す記録は残っておらず、「反乱の嫌疑」説とともに「御用金を隠し持っているのではないか」という憶測が広まったことが、赤城山に近いこの地への移住と結びつけられ、伝説を後押しすることになったという。

赤城山を中心に広がる埋蔵場所説

もっとも有力とされる埋蔵場所は群馬県の赤城山で、「源次郎の井戸」など具体的な地点まで語られている。他にも日光の東照宮や男体山、秩父・足尾銅山の坑道内など、赤城山での発掘が実を結ばないたびに新たな候補地が語られるようになり、伝説は各地へと広がっていった。

100年以上続いた発掘、そしてテレビの大規模プロジェクト

赤城山では、水野家が3代・110年にわたって私財を投じ発掘を続けたことが知られているが、成果は得られず、責任者は「成否にかかわらず一代にて中止する」と発表したと伝えられている。伝説を全国区の知名度に押し上げたのは、1990年代前半にTBS系番組でコピーライターの糸井重里氏を中心とするプロジェクトチームが行った大規模発掘だ。大型重機を投入し約2年半・計10回にわたって掘削が行われ、江戸期以降とみられる穴や遺物こそ見つかったものの、埋蔵金そのものは発見されなかった。以後も2000年前後や2016年、2017年にテレビ特番として発掘企画が組まれているが、いずれも決定的な発見には至っていない。

学術的には懐疑的な見方が主流

歴史学の立場からは、この伝説に懐疑的な見方が主流だ。幕府財政は綱吉の時代から慢性的に逼迫しており、隠すほどの余剰金があったとは考えにくいという指摘や、巨額の資金を投じて横須賀製鉄所の建設を進めていた小栗が、同時に軍資金を秘匿するのは行動として矛盾するという見方もある。また、明治以降に静岡へ移封された徳川宗家や旧幕臣が財政的に苦しんだという記録も残っており、隠し財産があったなら活用されていたはずだという指摘もある。

オカルト研究室室長の考察

史実を丁寧にたどっていくと、埋蔵金伝説そのものよりも、近代化に道を開きながら取り調べもなく命を絶たれた小栗上野介という人物の劇的な最期にこそ、この物語の核心があるように思えてくる。130年以上も掘り続けられてきたという事実は、宝そのものへの期待だけでなく、歴史の不条理に対する人々の「まだ何か理由があったはずだ」という思いの表れなのかもしれない。

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